カザフスタンの国立博物館で気になる地図を発見しました。黄色く変色していますが1884年発行(写真1)のシベリアの地図です。1884年は明治17年に相当し、同年3月には地租条例が制定されるなど、日本の国としての制度が固まりつつあった時期です。この年の前後の主な出来事は次の通りです。
- 1877年(明治10年) 西南戦争始まる
- 1883年(明治16年) 鹿鳴館落成する
- 1884年(明治17年) シベリアの地図発行(写真1)
- 1989年(明治22年) 大日本帝国憲法発布
- 1991年(明治24年) 大津事件(ロシア皇太子ニコライが襲われる)
地図の右端には日本が描かれています。さらに、日本とロシアの国境線もはっきりと引かれています(写真2)。両国の国境線は千島とカムチャッカ半島の間にあります。この当時の日露間の領土画定の経緯を外務省のホームページから引用してみます。
1.日魯通好条約(1855年調印)
日露両国は国交を樹立し、択捉島とウルップ島の間の両国国境を確認(樺太は両国民の混住の地とされた)。
2.樺太千島交換条約(1875年署名)
日本は、千島列島(=列挙されたシュムシュ島からウルップ島までの18島)をロシアから譲り受ける代わりに、ロシアに対して樺太全島を放棄。
この地図にある国境線は、日本とロシア間の条約に正確に基づいています。
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