スファクテーリエではペロポネソス戦争の7年目、紀元前425年に、スパルタとアテネの戦いがありました。スパルタにとっては屈辱的な、アテネにとっては輝かしい戦場です。この島ではあるまとまった人数のスパルタ兵が歴史上始めて降伏しました。
写真はGoogle Earthの衛星画像です。中央の細長い島がスファクテーリエです。アテネ軍は島の南より2度にわたり上陸し、スパルタ兵を島の北へと追い上げていきました。降伏したのの島の北端です。写真の上が北です。
ここでは約130名のスパルタ兵が戦死しました。そして、120名のスパルタ兵が捕虜となり、アテネに連行されました。スパルタは捕虜の返還のために何度もアテネと交渉し、やっと紀元前421年に捕虜は国に帰ることができました。彼らの国での運命はどうなったのでしょう?戦場で臆病と見なされた場合、共同体から排除され、あご髭の半分を刈り取られた姿で生きなければならなかったスパルタです。
今回は寛大な措置がとられました。市民としての権利が若干制限されたのみで、これもすぐに回復されました。なぜでしょうか?これにはスパルタ市民の数の減少が影響しています。紀元前480年には8,000人いた市民( = スパルタ兵)が、418年には2,500人程度に減少したと言われています。戦死や占領地へ行政官として派遣されたためです。120名はスパルタにとって不可欠な資源でした。
テルモピレーもスパルタ兵ですが、スファクテーリエでアテネ軍の降伏勧告に対し、大盾をおろし手を振って応えたのもスパルタ兵です。
島には渡れませんでしたが、対岸のピュロス(古代のピュロスではない)より、スファクテーリエでのスパルタ兵の苦悩に思いを馳せました。
300回目の記念として”ロングステイの道”の原点となったギリシャ旅行の話題を紹介しました。
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